与謝蕪村筆鬼貫像
「俳仙群絵図」より
提供 柿衛文庫
  
◎上島鬼貫(かみじま・おにつら)

江戸前期の俳人、攝津伊丹の人。名は宗邇(むねちか)別号、仏兄・槿花翁など。松江重頼・池田宗旦に学びまた芭蕉の影響を受けた。「誠の外に俳諧なしと」大悟。伊丹風の中堅となった。
著「犬居士」「七車」「独言」など。(1661〜1738)
「広辞苑」より
(辞書には松井宗旦とあるが、同辞書池田項参照)


◎ 姓は上島(出自からいうと「かみしま」呼称は「うえしま」晩年は平泉姓に改めた
岡田利兵衛著(角川書店)より

鬼貫終焉の地 鰻谷

昭和17年7月8日発行「鰻谷中之町の今昔」より抜粋。本書は皇紀二千六百年を記念して発刊されました。
(現在大阪市立図書館に3冊蔵書あり)
昭和八年八月大毎学芸欄記載。伊丹図書館長小林杖吉さんの「俳聖鬼貫の終焉」 から一節を摘記。
元文三年春、鬼貫七十八歳の高齢により、老衰をもって大阪島之内鰻谷中之町龜屋の寓居に病臥した。今南区北炭屋町の素封家で大阪史談会幹事なる俳人田中居庸氏の調査するところによれば、この龜屋といふは筑州産の蝋を商う大問屋で、広い晒場などもあったが今の三休橋一町南の辻を西へ南西角(南東ノ誤植カ)にある非常に奥深い屋敷(三十二、三十三、三十四番地に当たる)で、奥の方にこじんまりした離れ座敷が幾つもあり、座敷ごとに諸調度も夫々完備してをった。
龜屋の主人はもとより素封家で文人であったので常に諸国行脚の騒人墨客を気持よく其処に迎へてこれを優遇した。しかしてこの人は鬼貫が柳川侯出仕時代からの門弟であり、入魂の間柄でもあったので、特に閑静な離れの一つを選んで鬼貫に提供し、其処に住まはせて気長く養生させて居たといふことである。かくして春過ぎ夏去りて、残暑なほ灼くが如き閏(カ)八月朔日の夜に至り、病勢とみに革ったものらしく、急を聞いて駈けつけた梅門、五馬をはじめ友人や門弟らは徹夜枕頭に侍して介抱につくして居たが、二日の払暁つひに眠るが如く大往生を遂げた。人々は哀悼の極み声を放って慟哭し(月の月)、一家憂愁の空気に鎖された。……
田中さんは龜屋の事を町内に住んでいた或る老女から聞かれたさうで、それは上文の「諸調度も夫々完備してをった」迄でありませうから、これが維新前の大問屋らしい龜屋の状況と見て差し支へありますまい。伊丹風俳諧の祖鬼貫が「夢返せ烏の覚す霧の月」といふ余波の吟を残して、七十八歳を一期に「元文三年戊午秋葉月二日島之内うなぎ谷わたりの家に病没」したことは月の月や七車の跋にも見え、鰻谷であることは確かだとしても、その場所をはっきり龜屋と言い切れるかどうかは問題で、瀬尾さんの門口に俳人鬼貫終焉の地といふ石標がたちうれば実に愉快ですが、そこまで行くにはもっと証拠がいるのではないでせうか。
同じ俳人でも半時庵淡々は晩年大阪に帰り、宝暦十一年十一月飭屋町(心斎橋鰻谷南)木村氏方で死んだともいはれ、又同人を教外の師と仰いだ大江丸の俳諧袋夏の部には「大阪島之内うなぎ谷龜亭別庄に没す」ともあり、或は龜屋としてはこの方が却って文献的に確かだともいはれましせう。
ともかく三十三四番地はそうしく曰くのある地で、田中さんは鰻谷の因縁から、四つ橋の炭屋町側に「後のつき入りて貌よし星の空」の句碑を建てられました。
在世の心友來山の句碑と川を挟んで背中合わせなのも一奇といふべきでありませう。なほ鬼貫の「僊林即翁居士の墓」は二百年忌にあたる昭和十三年に、天王寺六萬躰鳳林寺の無縁塔中から発見されました。

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