「角川日本地名大辞典」より
鰻谷
「近世」江戸期〜明治5年の町名。江戸期は大坂3郷南組のうち。1〜2丁目がある。 慶長14年の三津村検地帳に「おなぎだに」の名が見え、
元和元年間の町割荷よって大坂 三郷に編入され町名となった。鰻谷の名は地勢に由来する。
空堀まちはその北部の谷筋に当たる所が西へかけて幾分かの高低を残し、この凹地が鰻と何らかの関係あり呼びならわされたという。(鰻谷中之町の今昔)
明暦元年の水帳で鰻谷1〜3丁目が見えるが、元禄7年の水帳では1〜2丁目となっている。(南区志)
2、3丁目を合わせて2丁目となったのは延宝8年という。(鰻谷中之町の今昔)
ただし明暦3年の新板大坂之図には、長堀川南2つめの通りが、東横堀川から西横堀川にかけて鰻谷1〜11丁目とある。
正式町名か俗称かは不詳、また高間町はもと鰻谷7丁目と称したという。(初発言上候帳面写/大阪市史5)
1丁目は「長ほり南側一すじ内ノ丁、よこ堀西は新橋筋」までの南側だけの町で(宝暦町鑑)
元禄13年の大坂三郷水帳寄せ帳による家数17軒、役数23うち無役数1(年寄)、年寄は古金屋仁兵衛。2丁目は新橋(板屋橋)から西の中筋橋の南側だけの町で(同前)、
元禄13年の同帳による家数26軒、役数35.5無役数2(年寄、会所)年寄は帯家善左衛門。明治2年大阪南大組に所属。同年鰻谷中之町、鰻谷東之町、長堀橋筋1〜2丁目となる。
鰻谷中之町
「近代」明治5年〜現在の町名。はじめ南大組、明治12年南区、同22年からは大阪市南区の町名、元は南大組高間町と、
長堀新橋町、長堀次郎兵衛町、長堀重茂左衛門町、鰻谷1〜2町の各一部。
船場では東西の通りの両側が東から西へ丁目を付されるのに対し
長堀川似南の島ノ内では長堀橋筋1〜2丁目、心斎橋筋1〜2丁目がそれぞれ帯状となり、 鰻谷各町などを東西に3分しているため、
町名を付さず東之町、中之町、とした。(南区志)(鰻谷中之町の今昔)
「鰻谷中之町の今昔」より
この書は「皇紀二千六百年」記念として刊行された。 昭和17年7月8日発行 発行所:大阪市南区鰻谷中之町々曾(大阪市南区鰻谷中之町六番地)
著作兼発行者:鰻谷中之町々曾長 大澤 儀三朗
※鰻谷中之町といふ町名町域が吾が大阪に出現したのは明治5年3月17日であります。
※鰻谷の命名の意味は、やはり地勢からでありませう。 摂陽奇観一に「往古船場の地形は當代のごとく平地にあらず。所どころに谷のごとく高低ありしにや、今の道修町近世まで道修谷といふ名存せり。また島の内の鰻谷も舊き名にして谷間のごとき所にてありしぞと。」
現在の上町丘陵は、東横堀川を以て一直線にくぎられて居ますが、かういふ状態にはあるべきではないので、自然の地形は川を越えた西にも、多少の高低出入を作つて居たらうと考へるのが常識でありませう。だから想像を逞しくすれば、秀吉が三の丸の外側に築いた空掘か、またはその北手の谷筋に當るところが、幾分の高低残して、そこが鰻と何か特別の因縁あつてしかく呼馴らしたのかも知れまいのであります。
何分ここは早く住友の銅吹場になつて、その為か何かによつて凹凸を平らにしてしまひました。道修谷の名は元禄の小説にも見えますが、もう其頃には道修町一丁目と名が變つてゐたのに、鰻谷だけは相變らず今もそのまま古稱を傳へて居るのであります。
※以上参考になる個所のみ抜粋した 蔵書 島之内図書館所有
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